脳読labo office萬歳之会

2022.09.05

【第一話】脳読labo office萬歳之会に至るまでの経緯

※長文になります。ご興味ある方だけお読みください。

カイロプラクティックとの出会い

21歳の時、従兄が住宅設備会社を企業し忙しく手伝って欲しいバイトしていた。

そのころバブル真っただ中。 夜は日付が変わることも多く時間に追われる毎日だった。

ある日曜日休日の朝、今でも鮮明に覚えている。朝10時過ぎだった。
起きてトイレに行こうと歩くと左足がつまずいてばかり。 おかしいと気付き足を触ったところ、手が足を触っている感覚があるのに足から触られている感覚がない。左足の感覚が麻痺していたのだ。
麻痺している左足が体に付いているだけで動かなく重く引きずって歩いているようなもの。

「明日病院行けば何とか治るだろう」と心の中で思い込んだ。

確かにその前触れはずいぶん前からあった。一番つらい時間は映画館だ。「じっとできないくらい体がだるいのだ」そのころお付き合いしていた彼女とおデート行く時も必ず「悪いんだけど行く前に体マッサージしてくれない?!」毎回お願いしていた。母には肩凝るから肩たたいてもらったりしていた。(笑)

次の日朝一番車で整形外科に。左足麻痺しているのにどうやって運転して行ったんだろう~覚えていない(笑)
それから2日に一回よくわからない大嫌いな注射と毎日左足に低周波でリハビリ。

皆さんと顔なじみになり「あんた仕事あるんでしょう。私ら時間あるから先にやってもらい。」とか言われお菓子までいただいて可愛がられていた。みんないいおじいちゃんおばあちゃんだった! 

通院して6か月、休めないので足引きずってバイトや学校行っていました。
基本治ると思っていたので何も考えなかったが6か月も経つと「もしかしてこれって、人生終わった?」と思うようになりました。

そのころお付き合いしていた彼女のお父さんが、「なんかよくわかんけど、いいって聞くから行ってみたら。」と情報をいただいた。私は藁をもすがる想いで紹介していただいたところに予約を入れた。

車で30分くらいのところだ。

そこはその先生の自宅だったと思う。自宅にお邪魔したみたいに玄関開けて入って行くのだ。確か「○○酵母研究所」って玄関の左に高さ50㎝くらいの縦看板で書いていたような記憶があり、さっぱりなんのことか理解できなかった。

玄関扉を開け入ると、畳半畳くらいのタイル張りの玄関で靴を脱いで上がると、横長の3畳くらいの待合、右の壁には明り取りの窓。そこに茶色の3人掛けくらいの長椅子があった。それも昭和の時代の住宅地だから何だか微妙に暗い(笑)。掛けるとすぐに壁に30㎝角の小窓がありその小窓がさっと開き、小窓が小さいので顔もよく見えなかったが35歳から40歳前後の男性「予約の人?少し待っていて」と言われた。

待っていると、中からいろいろな音が聞こえてくる「ガチャガチャ、プスー、ドン、プスーなど約7.8分だった。」壁しか見えない私は、「もしかして大変なところに来てしまったのかも・・・」としか思わなかった。

程なくして、出てこられた。女性だったような気がする。

一息置いて「どうぞ」と言われ中に入った。
中は8畳くらいの洋間。若干天井が低いのと中も同じく薄暗い(笑)
簡易に設けられた更衣室で「パンツ一枚になってこれに着替えて」と渡され着替えた。背中の方だけ開くようになっている。(今から35年以上前の話だがカイロプラクティックの本場USも同じ。今は、USでは使い捨ての紙の患者着だ。)
症状を問診され専用ベッドに寝かされワンアジャスト。いきなり1回で左足が動いた。感銘を受けた瞬間だった。
今から考えると全て今でも使える道具ばかりがロスなく揃っていて技術も凄い先生だった!!その後その先生には合計4回診て頂いた。体の不調や倦怠感は全て消えた。

その後私は貿易会社に就職した。

仕事していたのだが腰を痛めてまた診て頂こうと電話したが、もう繋がらなかった。
たまたまネットで良いとこがないかと探していたら。カイロプラクティック習える学校があることを見つけた。
33歳だった。同じ思いをした方を救える感銘を受けた先生に成れるかも思い。会社を辞め、夜仕事して昼間は全日制で眠い寝れない4年間通って必死に勉強し習得し念願のカイロプラクターになった。
その後先輩の大阪住吉の治療所でインターンをしながら1年間店舗物件を探しながら勉強させていただきました。
2004年4月17日 兵庫県西宮市樋之池町に Feel Chiro Boutique (フィールカイロブティック苦楽園院)を開業いたしました。


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